年賀状が毎年減ってきている。
少し前までは30枚位届いたり出したりしていたものが、今年は到着が半分程度になってしまった。
死去してしまった方もいらっしゃるけれど、時代の流れで年賀状を辞めてしまった人が多いような気がする。
私は大学を出ていないので、一番多いのが高校時代の友人。それと、トヨタに勤めていた時の同僚、屋久島時代にお世話になった方、親戚ではオヤジの弟の叔父などである。
地元東京都日野市、実家にいた頃の人も二人いる。一人は姉の同級生で、かつてエレクトーンを習っていた時の先生。いつも近況が克明に書かれている。新品のエレクトーンを二台買い、トランペットを買い、更にはグランドピアノまで買ったので、上客だったのだろう。今の経済状況からは信じられない過去の栄光である。
もう一人、今はハイソな雑誌の編集長と、とある所の社長をしている友人がいる。それこそ竹馬の友で、親同士も少し繋がりがあり、バイクや車であっちこっちへ行ったのは、彼と一緒だったことが多い。
まだ東京にいて、漠然と漁師になりたいと思ったとき、彼と一緒に神奈川の三浦半島のあたりに行って、漁師の仕事はありませんか?と、聞いてもらったこともある。その時は聞いたところが悪かったのか、冷蔵庫の仕事ならあると言われて退散した。ここで仕事が見つかっていたら、この先の屋久島はなかったのである。
そうそう、いつかも書いたかもしれないが、彼は登山好きのお父さんと一緒に、私の住むキャンピングカーin屋久島に来てくれた。友人の中で、私の屋久島での生活を知っているのは、彼一人である。
こんな彼とは細々と年賀状のやり取りが続いていた。今年は昔を懐かしむような一言二言を書いてみたところ、彼から携帯電話番号で送ることのできるメッセージで連絡があった。
彼の現在の自宅は東京都内の一等地だが、ご両親が亡くなってしまった後の実家がまだあり、数年前に建て直したのだという。
憶測の域を出ないけれど、東京都内は家族と過ごしながら仕事をする所で、実家は少し息を抜きながらくつろぎがてら仕事をするところ、的な感じに思えた。再婚した奥さんと、まだ小さな子供がいるはずなのだが、話には出てこなかった。
彼は社長であり、ハイソな雑誌を書いている事もあり、雲の上の人になってしまったとばかり思っていたが、実はそうではないのかもしれない。
仕事は仕事であるけれど、やはり私と一緒に車で出かけて、テントを張って中で一緒に寝たり、コールマンのツーバーナーで料理を作って一緒に食べたり、焚き火を焚いて炎を見ながら一緒に将来のことを喋ったり、そんな自由だった過去の想い出の数々が、お互い走馬燈のように脳裏をぐるぐると回っていると思う。少なくとも私はそうである。
2月に同窓会があり、もう一度実家に行くことになったので、今回時間を作って彼に会いに行くことにした。今までは東京の一等地に家族と住んでいるということもあって遠慮していた所があったのだけれど、実家同士というのは、これまた何というか、懐かしさが倍増なのである。
同窓会ももちろん楽しみではあるけれど、実はこちらの友人と会うのが、今から楽しみなのである。