
父は90歳、母は89歳。
介護が必要になってきたのは、つい最近のことだ。
それまでは、二人で何とか支え合いながら、行政の支援も借りずに何とかやってきてくれていたので、離れて住む長男としては助かっていた。
今思い起こしてみると、やはり衰えの兆候は随所に見られていた。
長年馴染んでいた近所のスーパーが閉店してしまい、買い物に困るようになった。
近所に住む姉の助けや週に何度かの移動販売で何とか凌いでいたところ、元銀行だった商店街の一番いい所にローソン100が開店してくれて、これで何とか助かっている感じだ。近くには学生も多く住んでいるし、昼間は現場の人達が弁当を買いに来たりと、それなりに流行っているようなので、おそらく今後も大丈夫ではないかと思っている。
病院への通院も、だんだんと大変になってきた。
病院へは、近くのバス停からバスに乗り、駅まで出て、そこから少し歩かねばならない。
父は未だにタクシーには乗らず、バスと徒歩とで行っている。
一方母は、バスには乗らず、自宅からタクシーで行くようになった。
衰えてきたとはいえ、父と母とはこのような感じで、姉にも手伝ってもらいながら、何とか自分達家族だけの力で暮らしていた。
ところが、母が家の中で転び、大腿骨を骨折したことで、一気に状況は変わってしまった。
母が骨折してしまったのは、正月早々。私たち夫婦は大晦日から正月にかけて帰省したのだが、その際にも兆候があった。
私たちが帰省した際、母は顔に大きなアザを作っていた。
まるでマンガのような、目の周りのアザは、とても辛そうに見えた。
聞けば、家の中で転び、家具に頭をぶつけてしまったらしい。母はかつて脳梗塞をしているので、3mgのリクシアナ、血液をサラサラにする薬を飲んでいる。妻もそうだが、この薬を飲んでいると、打撲後はとんでもないアザになってしまうのだ。
トイレもかなり臭いがしており、どうしたものかと見てみると、おそらく母が粗相をしてしまったように見受けられたので、私がローソンでトイレ掃除の不足物を購入してきて、トイレ掃除をした。
その数日後、母は自宅で転倒し、大腿骨を骨折し、救急車で運ばれて入院、手術、その後、今現在は、リハビリをする老健施設という所にいる。私も特別養護老人ホームの特養は知っていたけれど、老健、介護老人保健施設の事は知らなかった。入院して手術をして、病院の看護師さんや相談員さんなどと話をしていた時に老健という言葉が出てきたので、リハビリ施設としての役割を持つ老健の存在を知ることになった。
自宅には、地域の包括支援センターの相談員さんが、時々訪問してくれていたのだが、なかなか実際の支援の手が伸びることはなかった。
母は我が強い性格であるがゆえ、家にヘルパーさんなどが入ってくるのを極端に嫌っていた。父は家のことを母に任せていたこともあり、母の意志を尊重していたので、結果として、行政の支援を受けることはなく、今まで生活してきたということになる。
ところが、母が倒れてしまったことで、母はもちろん、父にも支援が必要になってしまった。
実際に父は、洗濯もわからない、というか、かつて洗濯機の水を漏らして下の家に被害を及ぼしてしまった事があり、それがトラウマになっているので洗濯機に関しては何もできない。掃除もそうだし、風呂も入っているんだかどうなのか、未だに把握していない。トイレは大丈夫なようだ。その他、エアコンは暖房にするのか冷房にするのか、何度にすればいいのか、このゴミはどこに分別すればいいのか、缶コーヒーを電子レンジに入れていいのか、など、ありとあらゆる事が心配になるようで、その都度私に電話をしてくるようになった。
母が倒れてからは、病院とのやり取りや、その後の施設とのやり取りなど、母はもちろん、父のケアが増え、正直てんてこまい状態だった。近くに姉が住んでいてくれたのが、不幸中の幸いで、姉がいなかったら私は介護離職しなければならなかったかもしれないほど、あれこれとやらねばならないことが増えた。
約3ヶ月弱が経過して、母が何とか老健施設から自宅ではなく、特養に移ってリハビリを継続するという選択をし、父も要支援がついて、行政の支援を受けることが決まったことで、少しだけ楽になったような気がする。
この先もいろいろとあるだろうけれど、今までの親不孝な生活を反省して、一生懸命にケアしてあげようと思っている。