隣の大御所: 独立と尊厳の最期

 お隣の大御所が昨日亡くなった。

 一緒に住んでいる息子さんが、おそらく私たちより少し年上で、その息子さんの父親である大御所さんは90を優に超えていると思われる。

 我が家とは隣同士なので、私がこの家に来た当初は顔を合わせると挨拶していたし、庭の手入れなどもマメにする方だった。

 90を超えても自転車に乗り、近くのスーパーまで買い物に行っていた。

 この方は、例えば免許がないのに車に乗っていたというような、少しばかりの癖があり、私の義父はこの方をけなすような事をよく言っており、近所付き合いもしていなかった。

 義父は元、このような人たちを取り締まる仕事をしていたので、職業柄仕方なかったのかもしれない。

 しかし、このおじいさん、見方によっては素晴らしい。

 老いても何ら行政の支援も受けず、たいした持病もなく、息子と一緒に、自分の建てた家で頑張って暮らしていた。妻はほんの数日前まで、彼が自転車で買い物に行っていたのを目撃している。

 一方で私たちの義父はどうだろう。

 好きな物を食べ、欲しいものを手に入れ、好きなように暮らし、健康管理もせず、老後を考えての貯金など一円もなく、年老いて病気をし、毎月考えられない額の年金を受給し、施設に入り、寝たきりになり、介護保険と医療保険から、これまた考えれないレベルのお金を毎月受給しながら生活している。

 寝たきりの生活も間もなく一年になろうとしているが、皆様から徴収した貴重なお金を、既に一千万円は使っていると思う。

 言葉が悪いのを承知で言うなら、この先何の希望もない老人が、である。

「俺たちは今まで長い間、経済発展に貢献し、税金を納め続けてきたんだ。だから老人を敬え」

 とか何とか言っている老人がいつかテレビに出ていたが、私と妻は怒り心頭になった。

 そして、この義父の、隣人の大御所に対する言動と、老後の生活ぶりの違い。誰の世話にもなることなく、密かに自宅で息を引き取った彼を、私と妻は心から賞賛した。

 既にお隣とは回覧板を郵便受けに持って行く位の付き合いしかなく、私たちは大御所の訃報を受け取った訳ではない。

 隣の家の動きが少しいつもと違う事から、何となく、その時期が近いのだろうな、と本能的に感じていた。

 いつもは家にいない、息子の姉、大御所の娘が、一日中家にいるようになり、洗濯物が増えた。

 息子が、同じくらいの歳の老人を、自分の軽自動車に乗せて連れてきた。その老人は、小綺麗な格好をし、旅行用のスーツケースを持ってきていた。

 この時点で、おそらく死が近いのだろうな、と、思っていた。

 そして昨日、葬儀会社の人たちが4人ほど来て、棺を運び出して行ったのを妻が確認した。

 妻も私も、彼の最期を目の当たりにして、義父の介護で疲弊した時期を思い出した。

 何と素晴らしい逝き方なのだろうと。

 人それぞれ考え方はあるとは思うけれど、私たち夫婦は基本的に、他人様に迷惑をかけたくないと思っている。

 この両極端の二人を見て、日本のお金の回り方はやはりおかしいと今さらながらに認識した。

 同時に、これでは東南アジア諸国に出し抜かれ、経済が発展しないのが当然で、賃金も上がらないのも当たり前だよな、と、かつての経済大国の衰退の隠れた理由を、垣間見たような気がしている。