スケートボードの思い出と夢:50年の時を経て

 前にも書いたかもしれないけれど、もう一回。

 50年位前、私はスケートボードが無性に欲しくなり、当時小川テントという所に勤めていた母の弟、要するに親戚に頼んで、スケートボードを買ってもらった。

 12,000円位したとか母がぼやいていた記憶がある。

 私が子供の頃は靴に被せるタイプのローラースケートが流行っていた。自分で言うのも何だが、私は仲間内でそこそこ滑ることができたので、調子に乗って差別化をしたくなり、スケートボードが欲しくなったのである。

 このスケートボードは、当時はまだ高かったせいもあり、なかなか仲間ができなかった。というか、持っているヤツがいなかった。

 当時はヘルメットや膝当てなんか誰も持っていなかったが、私は一式を揃えて持っていた。

 ちょっと恥ずかしかったが、暗くなってから、団地内のとあるスペースで練習した。当時はまだ土地に余裕があったので、少し歩くと、とてもいい練習場所があった。
 
 工事現場があると「ここにはスケートボードパークができないかな?」なんて思っていた。そんなわけはなかった。

 私が望んでいたスケートボードパークというのは、今まさにオリンピックが開催されている会場、まさしくあれ。

 私が持っていたスケートボードは、今とは違って硬化プラスチックだかFRPだかでできていて、あまり柔軟性がなく、固く、重たかった。

 時を経ること50年あまり、スケートボードが注目されている。

 私は田舎暮らしでもちょっと先を行きすぎた感があったけれど、スケートボードでもまた、そこそこ先を行ってしまった。

 肝心な技術は、教えてくれる人もいないし、周りにだれもやっている人がいないので、この人みたいになりたいというモデルもいないし、マニュアルなんかもなかったし、ただただ乗っかって滑り、時には漕いで進んだりして、今思い出してもこんなもんだったろうなという感じであった。

 小学校卒業のアルバムには、「バレーボールの選手になりたい。オリンピックに出てやる」なんてことを、バボちゃん?みたいな絵と一緒に書いているので、今と同じで、あれやこれやに対してのやる気だけはあったのだと思う。

 ただ、世界の「オオタニサン」と決定的に違うのは、その後の努力と根性が足りなかったこと。

 バレー部なんかは、入部して一学期は基礎練習をやっていたものの、夏休みになると暑いし面倒だからと練習には行かなくなり、やがて幽霊部員になり、退部と相成った。

 この適当さは、生まれ持った性格なのだろう。

 しかし最後ばかりは何とかしたいものである。

 スポンサーが付けば、日本で五本の指に入るような収入を得ることができるらしい。

 血の滲むような、骨の何本も捧げるような、起きてから寝るまでいつもその事を考えていて練習しているというような、そんな努力があってこそだぞ、ってことはもちろんわかっている。

 これからの景気づけに、ちょっと言ってみただけである。