いちばんはじめ、屋久島に行ったのは、正確には住み付いたのは2月だった。
屋久島といえどもまだ寒かったが、仕事となる「とびうお漁」で獲れるとびうおは2月が一番値段がよく、この時期は稼ぎ時だということで、見よう見まねで船に乗り込み、漁を続けた。
仕事も趣味も運動系ではなかったが、まだ30そこそこだったので、体力には余裕があった。漁で疲れて帰ってきても、親方の子供達と遊んだり、水路を流れる水で洗濯をしたりすることができた。
この、冬が終わりそうで終わらない、春が来そうでまだ来ない、2月の気候を感じるたびに、屋久島を思い出す。
お世話になった親方とは、もう連絡を取っていないし、屋久島を離れて以来、もちろん会ってもいない。私もこちらへ来たときに、携帯電話の電話番号を変えてしまったので、仮に向こうが連絡を取りたくても取れないだろう。
ちなみに当時はナンバーポータビリティーの制度がまだなく、夫婦となったカミサンの携帯電話と一緒の契約にしようとするなら、ドコモ関東からドコモ東北であってもドコモ東北の契約に変更し、電話番号も変えなければならなかった。
10年くらい前、親方の息子が自転車に乗って日本一周をしている途中で、突然仙台までやってきて食事をしたことがある。聞くところによると、親方は成人病になってしまい、以前のように元気ではないが、何とか船には乗っている、と言っていた。
私は屋久島行きを決意してから、勤めていた会社で有給をもらい、一度屋久島に行って漁師になるアテを掴んだのち、正式に退社を決めて、12年勤めた会社、東京トヨタのRVランド町田を退職した。
当時住んでいた東京と屋久島を往復するのでも、結構お金がかかったはずなのだが、よく何度も往復できたものだなと、今になって思う。当時は借金をするような知恵も勇気もなかったので、少ない給料ではあったものの、実家から通うことで何とかやっていたのだな、と、自分なりに感心している。
今から屋久島に行けるかと問いかけてみる。
おそらくもう、行くことはないと思う。
今の状況では時間が取れないし、仮に時間が取れたとしても、借金をしなければ交通費がない。もう、借金はしたくない。
また、仮に土地のある屋久島に住んだとしても、身体は年々動かなくなってしまうだろうし、そうなれば、地域の人達に迷惑をかけながら過ごすことになってしまう。私の持っている土地は、車がなければ買い物にも病院にも行くことができない。
私たち夫婦の場合は、私が田舎暮らし指向である。カミサンはそれほど田舎暮らしや屋久島に興味があるわけではない。
私の住んでいた集落に、同じ位の年齢のご夫婦がいらっしゃったのだが、そちらのご家庭は奥様が屋久島好きで、旦那さんがそれに付いてきたというご夫婦だった。このようなケースの方が、田舎暮らしは上手く行くような気がするが、こればかりはケースバイケースだろう。
私達は義父が建てた仙台の自宅に住むため、義父と同居を続けてきた。何もしゃべらない義父の気配を感じながらの生活を長い間続けてきて、特にカミサンは大きなストレスを抱えていたが、そのストレスからようやく解放されようとしている。
義父は昨日、腹膜透析をするための手術を終えたようだ。病院からは相変わらず何の連絡もないが、連絡のないところを見ると、手術は成功したのだろう。
これから腹膜透析がはじまり、落ち着けば転院し、その後リハビリを続けながら、終の棲家を探すことになる。費用面や何やらでもう少し大変な事がありそうだが、ケアマネをはじめとする、今までの人脈を駆使して、何とか乗り切っていければと思っている。