古びた電話と静かな港

 私は今まで、いろいろな仕事をしてきている。

 高校を卒業して、東京トヨタ、屋久島に行って漁師、帰ってきて佐川急便。もう一回屋久島に行って同じ漁師、その後結婚して仙台へ。こちらでは運送会社三社にお世話になっている。

 ということで、在籍証明書の取得はちょっと大変だった。

 その中で驚いたのは、こちらへきてすぐにお世話になった運送会社の方が、電話に出るなり「覚えていますよ」と言ってくれたこと。そして事務の女性までもが「こんにちは。覚えていますよ」と言ってくれたのである。2000年にこちらへ来て、2001年のはじめだったと思うので、25年も経っているのに。

 右も左も住所も地名もわからない土地、はじめての大型車の運転、ちょっとだけアドバンテージだったのは、東京で佐川急便のドライバーだったことだけ。荷物を「引く」のは下手くそだし、構内で夜中に接触事故を起こすし、配車に文句を言ったりで、どうして私なんかを覚えていたくれたのだろうかと、とても驚くとともに、とても嬉しかったのである。

 また、これも数十年ぶりに、屋久島の親方の所へも連絡をした。幸いにも電話帳に電話番号が残っていたのだが、もしかするとを考えると突然電話はできず、まずはかつてお世話になった屋久島の漁協に電話をしてみた。

 すると、重丸は健在、しかし今は「とびうお」はやっていないとのこと。遊漁船のような事をしていると、漁協の職員さんが教えてくれた。

 私はこちらへ来たとき、当時はドコモ東北の契約に変える際には、携帯電話の番号を変えなければならなかったので、東京、屋久島時代とは番号が変わってしまっている。昔の東京の佐川の同僚などからも、古い電話の時に電話がかかってきたこともあったのだが、今ではそれは叶わなくなっている。屋久島の人たち然りだ。

 私が電話をすると、親方は電話に出てくれた。遊漁船をやっているのなら、いろいろなお客さんとも話をするだろうから、それはよかったのかもしれない。人間の脳というのは本当に不思議でよくできている。ほんの一言二言喋っただけで、かつてサラリーマンを辞めて東京から屋久島に行った時のことや、その前に一度行って、状況を確かめた事などが鮮明に思い出される。東京からキャンピングトレーラーを引っ張ってやってきたこの変わり者は、おそらく親方の印象の中でも、強いものだったのだろう。

 声のトーンや喋り方など、何一つ変わらない親方。自分も船もそのまま、今でも何とかやっていると教えてくれた。時代の流れなのか、自宅の固定電話は解約したと教えてくれた。

 今回、今まで所属してきた仕事の在籍証明書の提出を求められたことで、こんな風に人生を振り返る機会を、今さらながらに与えてもらった。

 今の私は正直なところ、同級生に対して恨みではないけれど、不公平感を感じずにはいられない思いがある。

 というのは、彼らは、例えばの友人は二浪し、大学に行き、一流企業に就職し、それはそれで大変だったのかもしれないけれど数年前に早期退職をし、割増の退職金をもらって、今は仕事をしないでも暮らすことができているという現実がある。

 私だってあのまま東京トヨタにいれば、それは同じような感じになったのかもしれないけれど、やっぱりあの時のあの決断があったからこそ、今こうしてここでこれを書くことができているのだ。

 もっと自信を持ってもいいかなと、今回改めて思った。

 同級生達に嫉妬するのはもうやめて、これからは自分が生きてきた人生を、もっともっと大切にしながら、これからを生きていこうと思う。

 でも、思いを新たにするのは簡単だけど、実際問題お金がないんだよな、というのがオチなのである。

 とにかく病気をせず、80位までは何とか身体を使って働けるようにがんばるしかないのである。